流行の本というのは概して浅い物です。多くの人間が理解できるということは、それだけ面白くて簡単な本ということだからです。
だから10年以上前に流行ったこの本もきっと浅いんだろうと思ってたんですけれども、とんでもない。かの有名なトロッコ問題が面白かったから流行ったというだけで、本自体は後半に行くにつれて話が複雑になっていきます。あまりの苦しさに呻きながら読んでいたんですけれども、ブログにまとめるために何とか読み終わりました。
面白い本ですけれども、哲学の本だけあってそれなりに難解なので手に取る際にはお覚悟を。現代人にもわかりやすい身近な例を豊富に出してくれているので、哲学系の本の中ではかなり分かりやすい部類だと思いますが。
今回の記事では本の内容を軽く紹介した後に、それをストVのNボタン論争(※後述)に当てはめるとどうなるかという話をしてみたいと思います。
目次
概要
「1人を殺せば5人が助かる。あなたはその1人を殺すべきか?」正解のない究極の難問に挑み続ける、ハーバード大学の超人気哲学講義“JUSTICE”。経済危機から大災害にいたるまで、現代を覆う苦難の根底には、つねに「正義」をめぐる哲学の問題が潜んでいる。サンデル教授の問いに取り組むことで見えてくる、よりよい社会の姿とは?NHK『ハーバード白熱教室』とともに社会現象を巻き起こした大ベストセラー、待望の文庫化。
Amazonより引用
最大多数の幸福こそ正義――功利主義
この本ではまず対立する二つの考え方が紹介されています。功利主義と自由至上主義です。
功利主義は「最大多数の幸福こそ正義!!」という考え方になります。
「5人と1人、どちらかを助けてください。助けられなかった方は死にます!」と言われたときに躊躇なく5人の側を助けるのが功利主義における正義です。1と5を比べたらそりゃ5を助けた方が得じゃん!というシンプルな論なんで直観的に理解しやすいと思います。
しかし、たとえば1人の側が自分の母親や子供だったりしたときも功利主義の原理に基づいて5人の側を助けられますか?
サンデル教授は本の中では更にショッキングな例も引き合いに出して功利主義の限界を読者に問いかけてきます。
1884年、沈没した船から4人の男が救命ボートで脱出しました。しかし、生き残ったのは3人だけでした。4人の中で一番幼かった船の雑用係の命を奪い、食料とすることで彼ら3人は生き延びたのです。功利主義の観点から言えば1人が死んで3人が生き残ったわけだから、この行いは「正義」です。さて、我々は彼らの行いを心の底から「正義」と呼べるでしょうか。
これに対して、「1人を食料とすることを許してしまうと誰も船乗りにならなくなって、結果として船乗りがいなくなるから正しくない」という功利主義の観点からの反論も出来ます。
しかし、仮にこれがあらゆる意味で利益がコストを上回ったとしても、最大多数の幸福のために個人の生きる権利が踏みにじられるという構図は気持ち悪くないでしょうか。
「多数の幸福こそが正義」という指標だけでは正義を語ることは出来ないわけです。
人は自由に生きる権利を有する!――自由至上主義
対して、自由至上主義は「人間は生まれつき自由に生きる権利を持っていて、全体の幸福のために個人が侵害されるなんてもってのほかだ」という考え方です。先ほどの船乗りの話は自由至上主義の観点から見ると「全体の幸福のために彼が命を諦めないといけない理由はどこにもない」と言えるので間違っていると言えるわけです。
彼らにかかれば税金ですら非難の対象になります。貧しい者を救うために富める者からお金を税によって強制的に奪うということは、その人が働いて得たお金を使う自由を国が奪うことに等しいからです。他人の自由を奪わない限り、自分がどのように生きても文句を言われる筋合いは無いわけです。
しかし、自由至上主義は突き詰めると、「自由を奪わなければ何をしてもいい」という結論に行きつきます。
自分がどう生きるかは自分が決めるので、お金のために腎臓を売ってもオッケー!合意があれば自由を奪うわけでもないから人が人を食べることもオッケー!ということですね。自由至上主義の観点からはこれらを否定することは出来ません。これらを否定することは自由の侵害だからです。
そのような正義を共通の概念として共有する社会に住みたいかと言われると僕はNoです。実際、人肉食や自殺幇助を許す正義というのは感覚的に受け入れられない人が多いと思います。
あなたは何が正義だと思いますか?――3つ目の価値観、美徳
さて、ストV界隈で話題になったNボタン問題はどのように考えればいいでしょうか。
ストVに馴染みのない人のためにNボタン論争を簡単に説明すると、ストVの大会規約上は違反していないけれども大幅に有利になることが確定しているボタンを自分のコントローラーを改造して取り付けることが許されるか否かという議論が少し前にツイッター上で巻き起こりました。もっと詳しく知りたい人は議論の発端となったこちらのブログを読んでみてください。
このNボタン論争をマイケルサンデルの本に当てはめてみましょう。
「大多数はそんな特殊な改造が必要なNボタンなんて使わないし、使えない。ルール的にありでも不公平じゃないか」という意見を持った人は最大多数の幸福派です。
「ルールの中で争うのがゲームの醍醐味で、Nボタンは改造をしているけれどもルールに反していない。規制する方がおかしい」という意見が自由至上主義派になります。
どちらもそれなりに正しくて、それなりに間違っているように見えます。我々はどうやって結論を出せばいいのでしょうか。
そこで登場するのがサンデル教授が推す3つ目の価値観、美徳の促進です。
「その営みにおいて、本質的に重視されなければいけない考え方は何か」ということを考えて結論を出す考え方です。
ストVで言うならば「ストリートファイターにおいて最も重視されるべき本質は何か」「将来的にストリートファイターという遊びを我々はどう伝えたいか」という価値観を元に結論を決めるという考え方です。
ちなみにこの論争ですが、有志のプレイヤーがNボタンについてカプコンに問い合わせたところ、カプコンはNボタンについてNGの方針を取ったことで一応の決着がついています。(参考)
カプコンにとってストリートファイターとはNボタン改造の有無で争うゲームであってはいけないということだったのでしょう。
反論:PC環境の差は最大多数の幸福に反さないのか?
しかし、ここでストVをやっている人ならば新たな疑問が思い浮かぶかもしれません。
大多数が使えないものがNGなのであれば、ストVがPC環境を整える(約15万)+10万円モニターを使えばオンライン対戦での遅延が少なくなり、自分だけ圧倒的に有利になることはカプコンの美徳に反さないのかと。現にプロプレイヤーはみんなPC環境+高性能モニターで遊んでいますが、一般人の誰もがストVのために25万円を投資出来るとは思えません。
しかし、Nボタンを最大多数の幸福側の意見を優先して廃止にしからといって、環境を整えることにも最大多数の幸福を優先するべきかどうかというのはまた別の議論になります。
あくまで結論は”美徳”によって決まります。カプコンが「環境差を整えるだけで大幅に遅延が少なくなることが格闘ゲームの本質を損なうわけではない」と考えているのであれば、PC環境については美徳に基づいて自由至上主義の考え方が採用されるというだけなのです。
(この結論に読んでいる皆さんが納得するかどうかは知りません)
これからの「正義」の話をしよう
現実問題でもあっちでは功利主義の観点で結論が出て、こっちでは自由至上主義の観点で結論が出ているということはよくあります。全員が納得する答えなんてありはしません。
これらを少しでも解決するためには市民が公の場で話し合って話し合って話し合いつくすしかないとサンデルは主張しています。
正義の在り方はいつだって不安定で、どの国に属するか、どの時代に生きるか、によって大きく変わります。「正義」についてすっきりとした一元的な回答は無いというのがサンデルの結論です。ああでもない、こうでもないと議論をし尽してみんなで納得出来る「今の答え」を出し続けていくしかないのです。
まさに、”これからの「正義の」話をしよう”というわけですね。
関連書籍
マイケルサンデルの「正義」の考え方を新聞の悩み相談に活かした本です。
僕が人生において最も大きな影響を受けた本だと言っても過言ではない一冊。
こっちはめちゃくちゃ読みやすいうえに実用的なので興味があれば是非。
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