流行り物に飛びつくのが苦手でした。流行ってるから読んでるのか、自分が好きだから読んでるのか分からないのが嫌だったんですよね。もしも前者だった場合、自我が無いことを認めてしまうような気がして。
まあ、30歳にもなるとそういう変なこだわりというのが無くなってきてようやくこの本を手に取ることが出来ました。流行り物に触れた程度で自我は消し飛ばないのがようやくわかったわけですね。
ちょっと読み進めばすーぐ射精だの勃起だのという言葉が出てくるし、主人公がモテる理由もよくわからんし、この本をポルノとかラノベと揶揄する人の気持ちもよくわかります。でも僕は面白い本だったと思います。
あらすじ
十八年という歳月が流れ去ってしまった今でも、僕はあの草原の風景をはっきりと思い出すことができる――。1969年、大学生の僕、死んだ友人の彼女だった直子、そして同じ学部の緑、それぞれの欠落と悲しみ――37歳になった僕は、機内に流れるビートルズのメロディーに18年前のあの日々を思い出し、激しく心をかき乱されていた。
Amazonより引用
この物語を僕なりに分かりやすくたとえると、推しキャラが死んだけど軽傷で済んだオタクと、同じ推しキャラの死に本気で凹んで立ち直れなくなって引きこもったオタクの話です。
小学生でも知っている言葉縛り
村上春樹の小説がどうして色んな人に愛されているのかは1ページ読めばすぐにわかりました。文章のレベルが高すぎるんですよね。
自分にしかわからないと思っていた感覚がこんな簡単な言葉で置き換えれるのかというある種のアハ体験と、書いてあることがあたかも自分が普段から何となく考えていたかのように錯覚させる洗脳性がとんでもなく高い。
この体験を「流暢性」と「非流暢性」という言葉で説明しているヒットの設計図という本があるので興味がある人は読んでみてください。
村上春樹文体の亜種で、自分の感じている事柄を難しい言葉でわかるように説明しているのが西尾維新で、村上春樹と同じことを配信でやってるのがひろゆきだと思うんですけれども。
しかし、小学生でもわかる言葉縛りで表現しているので自分の感じている物と村上春樹の書く文章とでは少しズレが生じるんですよね。たとえば有名なこの一文。
死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。
ちょっと考えたら理解出来るような気はするけれども、やっぱりわからなくて何回か読み返したくなる文だと思います。このズレの部分を考える作業を読者がしたくなるのも村上春樹の魅力のひとつなんじゃないかと思います。
ノルウェイの森はおとぎ話として読むべき
ただ、この本は村上春樹の考える「死」「生」「セックス」という哲学的な部分の表現をすることがメインになってるので小説としては少し変になってる部分があるんですよね。そんな何でもかんでもセックスと結びつかねえだろとか。
メタ的な視点で見れば「はいはい、ここは生と死の対比でうんぬんかんぬん」と捉えることが出来るんですけれども、一人の人間の物語として見ると納得しにくい部分があると思うんですよ。
誤解を恐れずに言うとノルウェイの森はメッセージを伝えるための大人のおとぎ話なんですよね。浦島太郎を読んでどうして乙姫様はわざわざ玉手箱を渡したんですか!?とか思わないじゃないですか。それは僕らが無意識に浦島太郎を作者が何かしらのメッセージを伝えるためのおとぎ話だと思って処理してるからなんですよね。
ノルウェイの森も浦島太郎と同じジャンルとして読むべきだと思うのですが、いかんせん文章の攻撃力が高いので、そんな風に割り切って処理出来ない人がいるのも致し方ないのかなーと思います。
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